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004便「レ-ガデラ」劇評・記録写真

來來尸來 004便「レ-ガデラ」劇評
観劇回:2025年11月1日17時回
源薫


普通、観劇の客席は舞台側に向いている。そして公演が終わればそそくさと帰っていく。観客同士がふれあうことは知り合いでもない限りないだろう。観客は公演を観に来ている以上、当たり前のことである。しかし、人と人の関係として考えるならば、不自然なことではなかろうか。
1時間から2時間、1つのモノを見るという経験を共有する者たちの関係としては…。
 本文は2025年11月1日17時に観劇した來來尸來004便『レ-ガデラ』の劇評である。
 劇評の内容としては、全体の評価を書いた「総評」と問題点を書いた「私見」の2編から成り立っている。
 あくまで私の見解を述べたものであることを留意して読んでいただきたい。

総評
1.座席と関係
 客席が観客同士の顔を見えるように置かれている。しかし、舞台上の演者は顔を向かい合っていない。両方とも不自然に感じるものであるが、この不自然さに立ち止まらねばならない。
 なぜなら顔を見合わせることは、人にとって当たり前の関係である。顔と顔を見合わせることは人同士の関係を示している。観客同士が顔を見合わせることが少ないのは、観客の多くが互いに無関係だからである。また演者が舞台上顔を見合わせるのが多いのも、役同士の関係を示すことであるからだろう。
 にもかかわらず、客席も演者も対面が不自然に配置されているのは、”関係”という点に注意を向かわせるためであると推察できる。
2.作品の構造
「おはよう」
異邦人(エー)の発するあいさつに向き合うことが、この作品のαにしてΩであると思う。「おはようございます」と敬語をいう関係からどう脱するかを問題にしているのだろう。「おはよう」と「おはようございます」の両者が示唆しているのは、関係の違いである。
 「 関係」という語をキーワードとして考えるなら、004便は、社内の上下関係という縛りや文明化した社会の中によって、または過去の関係の喪失によって失った関係性を回復していく話だと捉えることができる。
3.regadera-じょうろ
本作品には、核心的といっていいような記号が存在している。それはじょうろregaderaである。
 このじょうろregaderaが代数xとなることによって、作品の表現に厚みを与えることなっている。例えば、じょうろregaderaが話しかける相手の代数xとなったり。
 このじょうろregaderaが代数xになることで、赤いリンゴを「赤いリンゴ」と表現することを回避している。

客席や演者の関係性と作品の軸にある関係をリンゲージさせて、そこにじょうろregaderaという代数で表現を厚みを持たせていることにはポジティブに評価できる。
 しかし、本作品に問題を感じなかったという訳ではない。まずこのregaderaから問題を提起してみよう。
 
私見
1.regadera
観客に作品の内容全てを明らかにする必要はない。しかし、観客に作品の内容の多くが明らかにされないわけにはいかない。なぜなら両方とも、観客が作品に自分の理解を導入するのを妨げるためだからである。
 一つ私見を述べるなら、作品において重要なのは観客が作者の意図を正確に理解することではない。作者にとって誤読であっても、観客がそれぞれ行う理解をどれだけ多く作品内に引き入れることができるかが重要なのである。
 しかし、regaderaという記号は、この理解の導入をを妨げてもいるように思える。
 果たしてどれだけの観客がregaderaが登場したシーンに理解を導入できただろうが(この点に関しては他の非言語によるシーンにも言える)。
 意味/無意味に関わらず、regaderaが登場するシーンに理解の余地が観客側に開かれていないように思う。確かに制作者(演者)は脚本を読み込み、何らかの理解を導入しているのだろう。しかし、観客側は、脚本を読むことなく、大半が一回限りの観劇で作品を理解しようとする。この制作陣と観客のスタンスの違いが、regaderaの演出に対して計算に入れられていないのではないのだろうか。
2-a.作品の導線
004便が実際、観客の理解を導入できているかについて、私は少し疑問に思っている。なぜなら、作品の理解に関する導入線(以下、導線と記す)があまりにも少ないと感じるからだ。
 この作品の導線はおそらく一本しかない。すなわち作者の意図である作品の筋であろう。この筋に観客が作品への入り口を見つけなければ、観客は作品に理解を導入する上での関係を持つことは出来ないだろう。
 それ故に作品にある種の副線(伏線回収の伏線ではない)が必要であると思えてならない。
2-b.導線としてのキャラクター造形
 一つの見解として挙げるならば、副線としての登場人物のキャラクター造形がある(このキャラクター造形は、來來尸來の過去作においてもアキレス腱であると言える)。
 キャラクターは、作品を動かす要素であると考えられるのだが、実際はそれだけではないだろう。観客は、単に作品の筋だけで作品を理解しようとするのではない。キャラクターの視点を通じて、作品に自分の想いを導入することもある。それゆえ、たとえ作品の筋が理解できなくても、キャラクターを通じて作品に何らかの理解を導入できるのである。
 004便は、確かに作品の本筋はしっかり構成されているが、キャラクターの造形においてはあまり成功しているとは言えない。この点は演者の問題ではなく、作/演の問題であると思われる。


客席が観客の顔を見える形で配置されている。私たちは、おそらく不自然に感じただろう。しかし、この不自然な感じこそが不自然ではないだろうか。観劇という共通の体験の上に、”顔と顔”を見合わせた関係が築かれてもよいのではないだろうか。
 しかし、一方で”顔と顔”を見合わせる関係であってはならないものもある。
演者と観客の関係である。
観客が演者の顔を覗き込もうとしたとき、過度の賞賛や誹謗中傷が起こるのである。それゆえ演者と観客は顔を見合わせてはならない。そして演者と観客のすれ違う関係においてこそ、劇評が生まれる可能性があるのである。
004便『レ-ガデラ』良い作品でした。


【公演データ】
來來尸來 004便「レ-ガデラ」
作・演出:いのまち
2025年11月1日(土)〜2日(日)
於:FRAME in VOX(京都・河原町)

【記録写真】
撮影:相原美紀(点命)
(※観客を入れない状態での撮影)