來來尸來003便「ブレイス」劇評(源薫)
本稿は2021年2月28日15時に観劇した來來尸來 003便「ブレイス」の劇評(のようなもの)である。
『ブレイス』は、題名がもつ意味「留め具、かすがい」の通り、様々なシーンが「アパレイユ」という架空の古本屋につなぎ留められている。常連と店主の会話、歯の治療?、クバの布、大学の講義、派手な鳥と地味な鳥の会話等々..。つなぎ留められたシーンの中で本筋になっているのは、以下の通り店主と常連の会話である。
- 週4回も古本屋であるアパレイユに入り浸る常連
- 店主と常連の会話その1
- 店主と常連の会話その2
- 常連が店主に何気ない相談をする。
- 店主の”カミングアウト”以上の流れを軸に話が進んでいく。
『ブレイス』において観客が”旅”する様に、様々なシーンを逍遥する中で何がテーマとなっているのか。おそらく一言でいうなら「多様性」であろうと思う。それも単純な多様性ではない。様々なシーンで示された過去や想い出も含んだ多様性であり、ジェンダー、食い分けなど多様性を分ける境界もまた様々なものである。
一方で『ブレイス』は、ただ単に多様性のみを示しているのではない。「多様性」という記号を抑圧する何かにも言及しているように思う。その最たるものが「見た目」である。見た目は種差/性差の多様を覆いかくす。しかもその「見た目」による多様性の覆い隠しは、他人の視線から現れるという点にある。店主の性別がわからないのも、他人の視線が見た目に集中しているからである。見た目が多様性の記号となる為には、見た目が他人の視線に依存せず、自己によって受け入れられる必要があるのであろう。
『ブレイス』を他の2作品(『ログ』『スパイア』)を踏まえて少し述べようと思う。
前の2作品から作・演が異なるが、「旅」というコンセプトは受け継いでいる。『ログ』『スパイア』では、観客の側からすると、作品に明確な中心軸ないしメインストリートのようなものを見つけることが困難に感じたということである。観ていると物語の隘路に彷徨う感じにおそわれていた。
確かに『ログ』『スパイア』は、観客側にさまざまな解釈が生まれうるのは確かである。しかし、観客に作品のコンセプトが伝わっているかといえばあやしい。
『ブレイス』は、コンセプトの伝達という点を過去作よりもクリアしているだろう。店主と常連の会話群が作品に中心軸として存在して、観客が作品のコンセプトへ向かうメインストリートを構成しているように思える。
一方で『ブレイス』は、コンセプトをはっきり明示し過ぎているのではと感じることもある。その最たるものが以下のセリフである。
「当たり前なんてこの世にないのさ」
確か派手な鳥と地味な鳥の会話に出てくるセリフである。このセリフを聴いた時、少し戸惑いを覚えた。
この「当たり前なんて~」のセリフは、あまりにも直接的にコンセプトを示し過ぎているように思えてならない。赤いりんごを「赤いりんご」と表記するに等しい感がある。「当たり前なんてこの世にないのさ」というセリフで示していることは、「ブレイス」の各シーンで暗示されている。しかしこの「当たり前なんて〜」のセリフは観客に対して解答を明示してしまっているように思えるのである。はたしてここまで駄目押しする必要があるのだろうか。私は違和感を覚える。
以上が『ブレイス』の劇評(のようなもの)である。來來尸來の次便は来年になるそうだが、それまで観劇環境が整ってくれることを願ってならない。
來來尸來003便「ブレイス」劇評(役者でない)
先日、京都を拠点にする劇団である、來來尸來の公演「ブレイス」を拝見しました。
しき さん、いのまちあーみ さんの2人で構成された「異国への旅」と「テキストの多層化」をコンセプトに掲げている劇団。以前はもうひとり、出町平次さんという脚本演出担当の「主宰」もいらしたけど、今は抜けられて、2名体制。主宰の席は空いたままらしいです。
今回の作品は、これまで宣伝美術を手がけられていたいのまちさんが脚本・演出。私がらいしー(略称)の作品を観たのは、旗揚げ公演の「ログ」以来2度目。2年ぶり……?長い時間が経った。
今回の会場は、京都市左京区一乗寺にある、恵文社一乗寺店という本屋のイベントスペース。「cottage」という名前のそこは、普段展示会などで使われていて、もちろん劇場ではないので、演劇で使われるデカくて重い照明なんて使えません。そもそも暗転できる場所ではなく(窓あるし)、その上コロナで密閉ができないから、日光入りまくり。劇場だったら、一瞬真っ暗にして「ここで場所が変わりますよ」というサインを作れるけど、その手は使えないわけです。
その場所でやるにしては、思い切った脚本だったなあと思いました。
脚本を読んでもらえば分かるのですが、一箇所で起こるストーリーでなく、いくつもの場所――主に本屋と歯医者の診療室と大学、そしてどこともはっきりしないいくつか(あるいは一つ)の場所――での話が羅列的に演じられます。同じ空間で、暗転もセット替えもなく、キャラクターは変われど演じている俳優は二人だけ。劇場で上演したほうが、ぱっきりと場面が変わって見やすい作品だったとは思います。
ただ、変化が少なく、それぞれのシーンが切れ目のないように見えるからこそ、cottageという一つの場所に複数の場所の光景が層になって透けて見えるというか。二人の出演者に、もっと多い人たちが重なって見えるというか。それは、制限のある場だったからこその興味深さだったと振り返っています。
それに、cottageの窓から入る昼過ぎの陽の光が暖かで。少し逆光になる俳優たちがきれいで。それだけでも見てよかった。
「ログ」もほぼ二人芝居だったのは共通してるけど、会話に二人の関係性を示す言葉があまりなくて。それはそれで、二人の関係を想像する楽しさがありました。方や「ブレイス」は、会話からシーンごとの登場人物の関係性がわかるからこそ、「シーンごとに人物が変わってることがはっきりわかる⇛その空間に全く違う場所が重ねられていく」のがよくわかって、また別の楽しさがありました。
らいしーの全作に出演しているしきさんは、団体のプロデューサーでもあります。2名の脚本を出演者として経験している。そして全作の宣伝美術を手掛け、今回脚本演出も務められたいのまちさん。
二人が乗ってる來來尸來という船は、今後どんな作品に舵を切っても変わらない乗り心地で観客をどこかに連れて行くんじゃないかと思っています。もちろん、船酔いもなく。次回はぜひ貴方にも、乗船してみてほしいです。
ご感想(WEBアンケートより)
清潔感、清廉感を感じました 観た後に清々しさを覚えたのは久々です 常識なんて無いという言葉が響きました 次便も期待してます
恵文社さんのcottageは別のイベントでお邪魔した事があり、その時から「演劇をやるスペースとしても面白そうだな」というイメージを持っておりました。
そんな、レトロで可愛らしいカウンターを舞台に繰り広げられた「異装」と「断層」と仄かな希求の断章。
ジェンダーという多様な枝葉を持つテーマについて、男性性と女性性の間を行き来しながら、人類の起源にまつわる旅、アフリカの風土、孔雀など、多彩なモチーフを用いながら、舞台上にぶちまけられていた、そんな読後感がありました。
「しげさん」役の演者さんの動き、特に女性になりそして再度男性の装いへと変貌するサイレントの演技が大変印象的でありました。
大学生役の俳優さんの「努力ダンス」も、帰り道しばらく耳から離れませんでした。
「旅に出なくて済んでいるのは遥か大昔に旅に出た人間がいたからで。」
フライヤーの摘出される孔雀の図柄と共に、このあおり文も、心地よく響きました。
それでも、私たちは旅路にある自分を想像するものでしょうか。
コロナ禍での上演、多難であったかと拝察致します。
またご縁がありましたら、うかがおうかと思います。
ありがとうございました。
001、002便と同じ方法論を踏まえている様ですが、過去作より観やすい内容でした。性別から切り込んで当たり前と思っていることの虚構性を描いていたように受け止めてました。おそらく、幾つかの焦点を含んでいるのだろうとは思いますが。
夫婦で観劇した。少し間に戸惑う場面もあったが、不思議な時間軸の交錯を見ているような体験でもあった。家に帰ってから、劇中の身体表現を真似て夫婦で会話をして遊んだ。「かすがい」の意外な効用かもしれないと、おおいに楽しませていただきました。行ってよかった。
作演出が変わってから初めて観劇。 こちらの演出の方が想像の膨らませやすい感じがします。
以前観たライト商會の方は会場や小道具が強すぎて旅(想像?)というよりは異国風のモデルルーム見てる感じがしたので、作品づくりの雰囲気としては合うなという印象です。
POPEYEやBRUTUSを捲って読んでいる感覚になりました。画とか想像をさせる演出がいいなぁって思いました。
男性の役者の方は動きが綺麗、女性の役者の方は座ってる時の画が良かったです。
全体的に会話してるように見えなかったのはそういう演出…?違うシーンで役のズレみたいなのが見受けられたのでどっちなのかと思いました。
來來尸來 003便「ブレイス」
作・演出:いのまちあーみ
2021年2月27日(土)~ 2021年2月28日(日)
於:恵文社COTTAGE

