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信仰とかについて

何を信仰するか、と言う話かも知れない。
と、今開いた新作の中に書いてありました。
いや、自分で書いたんですけど。

個人的に、信仰を失えば芸術家は芸術家たりえないと思っています。
信仰って神だけじゃなくて、身近な人だったりとか、煙草とかだったり。僕の場合は美しさってものを永いこと信仰していました。

学生の頃から、いわゆる谷崎的だったり、寺山的だったりするアングラ的な美しさを追い求めていたのですが、最近、つと、立ち止まることが増えました。

それは、機能的なものを尊んでいくということではなく、ただ、飽きが来たのだと思います。
美しさも、信仰も、ただ飽きてしまう。これは精神ではなく、生理であると思います。お腹が減るように、ただ、満足してしまったのかもしれません。

死ぬときに満足して死にたいとか、いうじゃないですか。

それは、生に飽きるということとどう違うのだろうか。

昔、父が祖父の葬儀で、祖父のポケットにあった煙草を吸いながら、言っていたことを思い出します。

「葬式って、何のためにあるか、(僕の名前)は知ってる?」
「なんで?」
「父さんが死んだときに覚えといて欲しいから」
「うん。」
「生きてる人のためにやるんだよ。お坊さんが言ってるお経はそういうものだから」

母に禁じられていた煙草を、僕の前でわざとらしく吸いながら教えた父は、子供の頃にもらえなかった事を、代わりに与えているように見えたのを憶えています。

今回は葬式の話でもあります。
どう折り合いをつけるか、みたいな話になるかはわかりません。
僕も知りたいです。
だから書いてます。
この先に何かが在ると信じています。

何を、信仰するかという話だと思います。

(出町平次)