來來尸來 004便「レ-ガデラ」は、2025年11月1・2日に無事全4公演を終了しました。
ご来場いただけた皆さん、気にかけてくださった皆さん、座組の皆さん、本当にありがとうございました。
舞台は終わってしまえば、本当にあっという間に消えてなくなってしまいますね。というか、上演している時からすでに、消えてなくなり続けながらやるしかないものだと思います。
先月、彫刻家さんと珈琲屋さんとダンサーと俳優が出演者のダンス作品*を観たんですが、ダンサーと俳優のムーブメントと発話がどんなに素晴らしくても、残るのはせいぜい床に飛んだ汗くらいで、彫刻家が彫り進める木の人形の存在感と、珈琲屋が淹れた珈琲をその場で飲む観客の実感と比べたら、そのなんと弱いというか、際どいというか、儚いというか、ということでしょう。
だからそれを寂しいと感じて、その寂しさを共有できると思って、感想をシェアし合ったり、写真を撮ったり、ステッカーを売ったり買ったりして、なんとか舞台を延命したくなるのもすごく分かります。
でも結局、舞台はもう終演しています。上演そのものは跡形もなく消えています。記憶もどんどん薄れます。
当たり前のことですが、僕はそれがいつも悲しい。
皆さんは観客として、出演者として、この否応なく進行する喪失とどう向き合っているんでしょうか。
これは「レ-ガデラ」に関係なく、いろいろな舞台芸術全般に対して言えることで、「なぜ來來尸來を通して公開しないといけないのか」と言われるかもしれませんが、それはブログの魔力ですね。
やっぱりブログって良いですよね。
個人的に最近、Xに何かをポストしたいという気持ちがめっきりなくなってきているというのもあります。
Xのタイムラインに流れてくる数多の舞台公演宣伝ポストと、インプレッション稼ぎのさまざまな種類の毒沼からジャンプして、静かな場所で静かなフォントの文章で、しかしやはり「公演に来てほしい」という気持ちは変わらずある。メンバーそれぞれの言葉でそれを伝える。ブログという形でなければ、僕はこんなに書く気にならなかったと思います。感謝。
「レ-ガデラ」に出演して考えたことも、少し書きます。
僕はこれまでいくつかの舞台に出演したり、作ったりしてきましたが、自分が、目の前の共演者が、物語の登場人物として別の世界で実際に生きているように、感情を持っているように見える演技をしようとしたのは、高校の学園祭で最後の方に出てくる関西弁の悪い社長としてちょっと出演した演劇以来で、つまりほとんど初めてでした。
これは、どうやらそうすることを求められているっぽい、というのが分かったのと、他の三人の共演者とのバランスを考えて腹を括った感じです。
やっぱり物語の役として人と話をするのは、かなり特殊な行為に思えました。特殊な割に目的が一直線な感じ、スポーツみたいですね。あとシーンにもよりますが、「緊張感」が無いなと思いました。
「緊張しているか」と「緊張感があるか」は別の話です。
舞台で緊張感を出そうとしている時は、あまり緊張しません。
今回、僕の役の人物は作業終わりに立ち飲み屋で酒を飲むとかしていて、あまり緊張していないので、緊張感を出してはいけない。そうすると僕はすごく緊張してくる。
逆に、地球の反対側の工場に連絡もなしに知人を訪ねるとかもしていて、これは少しは緊張している気がする。その瞬間、僕はあんまり緊張していない。
これは一体何が起きてるんですかね。とにかくものすごく良い経験になりました。
たくさん読んでくれてありがとうございます。
「レ-ガデラ」の舞台上には、言葉で説明できないものがたくさんありました。
なぜこれが良いと思うのか、なぜこう見せたいのか、なぜそんなふうに立ちたいのか。
限られた稽古時間の中で、台本・演出・出演者・音響・照明・美術のこだわりを共有することも、整えることも全部できたとは正直思えません(全部できるのが良いと思っているわけではないですが)。
(ちなみに稽古中、僕が少しでも恣意的な動きや発話を見せると「それやめましょうか」と作・演出のいのまちさんに制されていました。あれは整える作業だったと思います。)
言葉で舞台を説明しきることはできないからこそ、言葉で説明できることはなるべくしておきたい。
舞台に立って、いただいた感想や批評をただ読むだけでなく、同じように出演した作品に対して何か書くことが、終演して消えてしまうはずの舞台を、場所と形を変えて続いていくことになるじゃないかと思って色々と書きました。
皆さんの感想や批評も厳しい内容でもまだまだお待ちしております。よろしくお願いします。
ありがとうございました。

*akakilike 『病癒えし者の着色された魚への聖なる感謝の歌』https://kyoto-ex.jp/program/midori-kurata/