空に飛行機雲が流れる。飛行機に合わせて音も聞こえる、気がする。窓を開けるのも億劫で、部屋の空気が悪い。それを振り払うように話しかけてみる。
「旅をすることがあったらさ。」
「うん。」
壁際から一応返事が聞こえる。彼女はスマホから目を離さないし、指も止めない。
「あ、旅行じゃなくて旅の話なんだけど。」
「うん。」
スマホを触る指に休みはない。親指が心地良く動いている。タッタッタ、あなたに気は遣いませんよ、タッタッタ。
「雲を食べることを最初の目標にしようかな。」
「は?」
ああ、タッタッタが止んでしまった。気に入っていたのにと残念に思いながら、顔を上げる。彼女と目が合う。こっちを向いた顔は、怒ると呆れるのちょうど中間のような感じだ。
「だからさ、雲を、食べようと思う。」
表情一つでめげてたら、彼女との会話は成立しない。言い訳したくなる気持ちにそっと蓋をする。
「今日の雲じゃないよ?  もっと晴れた日の、青空に浮かんでる雲。何かを探しながら彷徨うのも、旅の醍醐味だと思うんだ。」
「どうやって食べるの?」
「それも探す。」
彼女はふーんと一言呟いて、またスマホに顔を戻した。それ以上、バカなことを話さないでと言わんばかりに、また指が動き始める。タッタッタ、あー忙しい忙しい、タッタッタ。
彼女から目を逸らし、窓の外を見る。飛行機雲は消えかけている。
明日からまた仕事だ。今から十何時間後には、会社の入口をくぐり、自分のデスクに向かって、始業の挨拶を待っていることだろう。
朝なんて来なければいいのに、と入社した次の月には考え出していた、ように思う。もしかしたら小学生だとか、中学生の頃からだったかも知れない。朝が来なければ明日は来ない。明日が来ないなら、僕の脳は昼も夜も朝だって、関係なく自由だ。タスク・フリー。

ああ、嫌だな。

「大丈夫なの?」
「え?」
「いや、会社とか、家族とか。大変なのかなって思ったんだけど。
唐突のことで、思考が切り替わらない。聞かれたことを考えているつもりで、明日の朝のことを考えているような気がする。きっと彼女に心配されていることも、その手助けをしている。多分、僕と彼女はそれほど仲が良くない。
「あーうん。毎日、昼になるまでがね。」
「午前中が大変なの?」
「朝起きて、職場に行って、午前中の仕事を終わらせたぐらいには気持ちも落ち着いてるよ。それまでが、すごく億劫だ。」
なるほどね、といったように彼女が頷く。
「それ、わかるよ。」
「ほんとに?」
うん、とまた頷く。そしてスマホを置きながら、ゆっくりと言葉を話す。
「結局のところ、あなたは雲が食べたいのでも、どこかに行きたいわけでもないんじゃない? どこかに行ってしまいたいってだけで。」
言うだけ言って、彼女はまたスマホを触り始めた。タッタッタ。
そうなのかな、と考えながら、窓の外を見る。腑に落ちたような、落ちないような変な感じだ。
飛行機雲はもう跡形もなく消えている。代わりになるような特別変わった雲もない。それにしても空気が悪い。そろそろ、本当に換気をしよう。

僕は重い腰を上げた。