構造とかについて。

出町平次です。

昔から、狭さを感じていたように思う。

とくに、世界に対する狭さだと思う。

一番最初に感じたのは、ゼルダの伝説。64版の。あ、時のオカリナ。

もちろん、最初は広さとか、アイテムとか。

興奮した。

どこまでも続く世界っていうのがリアルに感じられた。

子供の間なんか、金銭や、時間や、繰り返しでしかない。

狭い範囲を同じ時間帯に動き回れば、それは、ゲームの中よりも世界を感じづらい。

外国も、もはや、別のゲームのタイトルのようなものだ。

永遠にどこまでも、時間も動きも拡張された世界。そこをどこまでも動き回れる。

でも、端っこに行くと、あーここで終わりなのかぁっていうのがわかる。

それが例えば、体力的な限界だとか、もともとどうしようもないけど、こう、地続きなどうしようもなさなら、まだまだ、つながってるんだ!思えたかもしれない。

構造の理解が退屈につながってしまうこともある。

でも、構造理解の一瞬が何より面白い。

それは、一種の魔法だ。

この世の理を解することで、それは、一歩神に近づくことだ。

なんでも記述できる人になりたかった。それは、物書きの神になりたかったというのが一端にありそうだ。

僕はずっと神様になりたかった。

それは、いろんな名前を借りた。

ジェネラリスト、この世のすべてを記述するもの、魔法使い。

そのすべてが、僕の中で、神を示す言葉だった。

その手段すべてが、僕には、信仰であり、また、人間から脱却することでもあった。

狭さを、どうにかするためには、もう、満足できないのだから、少なくとも自分の記述で上書きするしかない。

と、今でも、信じているんだと思います。

まぁ、物書きはみんなこんなこと思ってるんじゃないかとも思います。

とくに、あのポリゴンと共に育ってきた、僕たちは。

出町平次